【マース・ヒューズ】
「で、話ってのはなんだ?」
そう言って、いつもと同じように穏やかな笑みを見せるメガネの男を前に、ジャン・ハボックは少なからず緊張していた。
こうして軍の施設ではない場所で、それも自分から声をかけ同行させて向かい合っている今、話をしないことには用が済まない。
だが、実のところこの相手に対し、ハボックはどんな態度で話をしたらいいかと迷い、また、話の内容もどう切り出したらいいかと思うようなものなので、
店に入ってからしばらくたつ今も、まだ何の話も始められないままだった。
言いよどむハボックを見てどう思ったか、マース・ヒューズ中佐は口元の笑みと眉の動きで話を促してくる。
ハボックはそれに押されるように、まず突然ここへ引っぱってきた非礼を詫びようと口を開くが、今度はどんな口調にしたらいいのかと悩んでしまう。
普段ハボックがヒューズ中佐に会うときは必ずそこに他の者がいて、それはハボックの同僚のことも多かったが概ねは直属の上官であり、
対するヒューズ中佐とは旧知の友であるロイ・マスタング大佐がいる場であって、そんな時の会話には普段通りの、
上の者に対するには失礼と言われかねない言葉遣いでそのままヒューズ中佐にも話しかけ、言われた中佐も気にする風でもなく冗談に笑ってさえいるのだが、
こうして面と向かって二人で話をするのなら、いつもは間にいるロイ・マスタング大佐に免じられての無礼講も改めた方がいいのだろうかとも思う。
だが、ハボックが意を決して息を吸い込み、乾いてしまった唇を開き、あまり使う機会のない言葉で堅苦しい謝罪を始めると、
すぐにヒューズ中佐はそれを遮り、仕事の話かと面白くなさそうに訪ねた。
ハボックは改まった口調のまま、軍務とは関係のないプライベートな話だと言うと、それならいつも通りにやってくれと返して、
ヒューズ中佐は椅子に凭れるように座りなおし酒を頼んだ。
仕事がらみでないのなら酒でも飲みながらのんびりやろうと、運ばれてきたグラスを渡され、ハボックは気負いを殺がれてしまう。
そして、知らぬ間に入っていた肩の力を抜いた。
改まった口調でなくても構わないと言われてほっとする。
そうでなくても言い出しにくい内容なのだ。
言葉を選び、態度を律し、畏まっていては何を話しているのか判らなくなりそうで、その心配がなくなってくれるのは有難い。
ハボックは普段ヒューズ中佐が東方司令部にやってくる際に上官の部屋で皆と話す時と同じように、気軽に砕けた言葉遣いに戻り、大きく息をついた。
緊張のせいか喉も渇いていたので、手にした酒を一気に乾し、司令部を出てから口にしていなかったタバコに火をつける。
灰皿を手元に引き寄せてから喫煙の断りを入れていなかったと思い、遅ればせながら「いいスか」と聞いてみたら、何を今更という顔で笑われた。
長く煙をはきだして人心地つく。
ようやく落ち着いて周りが見えるようになってきたので、ハボックは改めて目の前にいるヒューズ中佐を眺めれば、
いきなり理由も言わずに連れてこられたわりには怒っているようでも不機嫌そうでもなく、いつもと同じ人当たりのいい表情で、
いつもと同じ雰囲気で、グラスを傾けながらハボックが話し出すのを待っている。
ハボックはテーブルに追加された酒瓶をつかんで自分のグラスに注ぎ、咥えタバコのまま、さてどう切り出したらいいかと考える。
尋ねてみたいことがあるのだ。
この相手なら自分の求める答えを知っているはずだから、一度きっちり聞いてみたいと思っていたのだ。
それが、たまたま今日になっただけだ。
ハボックはタバコを一本吸い終えると口元を引き締め、本題に入ろうとする。
あまり外聞の良くない話だ。
他の客に聞こえぬよう声を潜め、だが目の前の男には聞こえる程度に、そしてその男が話を聞きながらどんな反応をするかを見逃さないように正面から見つめながら、
ハボックは一番聞きたいことを率直に言葉にした。
「大佐のウワサ、本当なんスか」
□
軍部内にはロイ・マスタング大佐に関するあまり性質の良くないウワサがある。
それは大佐が現在籍を置く東方司令部はもちろん、セントラルでも耳にした者は多く、ウワサというよりは事実として認識されている場合も少なくない。
曰く、ロイ・マスタング大佐はその身体を使って上官に取り入り、その代償として昇進を果たした。
若年で大佐になれたのはそのためで、今も更に上の地位を狙って何人とも寝ているそうだ。
名指しで言うのは憚られるが、大総統の覚えめでたくとはそういう意味だ。
他にも実戦の実力者、家柄の高貴な者、人望厚い意見板など名だたる軍属者が後ろ盾の見返りに身体を自由にしているのだというウワサは、
すでに周知の事実とされている節もある。
ハボックはロイ・マスタングという男の下に就いて以来ずっと、自分に命令を下す者を見てきたが、これほど近くにいるにもかかわらず、
それがただのウワサなのか真実なのかを知る機会はこれまでになかった。
軍属では状況によって上官から「命を捨てろ」と言われる可能性もある。
今は戦場に行くのは稀だが、自分の上に立つ者に死をもって成し遂げよと命じられて、従うことのできる男かどうかを見極めるのは生き残るために必要で、
あるいは場合によっては代わりに死んでやることが出来るかを考えておくことは、一瞬の判断を要するイザという時にものをいう。
そんな考えもあって上官を値踏みするように観察してきたハボックだが、
これまでロイ・マスタング大佐に関するウワサが事実だとする現場や確たる証拠に行き会うことはなかった。
もっとも、ウワサが事実であるなら尚更、そう簡単にバレる迂闊さを持ち合わせているような凡人めいた愛嬌を期待できる相手ではない。
まったくのデマか、完璧に隠蔽された事実か、そのどちらもありそうに見えるだけに性質が悪い。
その一方で、「無類の女性好き」というウワサもあって、まったく相容れないと思いもするが、
そちらの方はウワサではなく事実だということをハボックもこれまで何度も目の当たりにしてきた。
決して自分から積極的に声をかけたり誘いまくったりしているわけではないのに、ロイ・マスタングという男は女性に本当に良くモテる。
また、賑やかな女性遍歴からの想像通り女性に対してもマメで、デートともなれば普段のサボり加減が嘘のような速さで仕事を処理し、時間に遅れることもない。
そちらの方は丸わかりなだけに、もう一方のウワサの真偽を判断するのは益々難しくなる。
なにしろ相手はロイ・マスタング大佐だ。
一筋縄でいくはずもない。
あのお偉いさんも、あっちの司令官も将軍も、こんな東部にまで頻繁に来るだろう。
その度に大差殿が呼び出されているってわけさ。
今に始まったことじゃないらしいぜ。
士官学校の時も色々武勇伝があるらしい。
ほら、同期でよく連んでいるセントラルの中佐あたりが詳しいんじゃないのか。
ニヤついた口元から発せられるそんな言葉を聞きながら、ハボックはそのウワサの真相を探ろうとしていた。
それが本当なのか、ただの中傷めいたウワサにすぎないのかを突き止めようとして、
まずはロイ・マスタング大佐の旧知の友であるマース・ヒューズ中佐に声をかけたのだ。
自分の直属の上官を探っているなどと言われるのは得策ではない。
それが大佐の耳に入れば、面白がるにしても嫌悪・警戒するにせよ、冗談にしては辛らつな報復を受けるだろうとは予測できるし、
他の者にウワサとして届くのも、万が一別部署に転属する羽目になった時に、
新しく上官になる相手にもその部署の面々にもマイナスの印象を持たせることになるだろう。
下手な探りは自分への信頼を危うくさせる。
それこそ軍属の命取りだ。
だからこそ誰彼なく尋ねるわけにもいかなかったし、迂闊なことは言えなかった。
その点、この相手なら信頼できる。
普段の様子を見れば、自分に対してはともかく、大佐に害をもたらすようなことをする人物ではないことは間違いない。
おまけに、軍に属する以前からの知り合いなのだから、軍内部の誰よりも大佐を知っているはずだ。
だからこそハボックは今日ヒューズ中佐に尋ねてみることにしたのだ。
この相手であれば、大佐にとって不利益になるようなことを喋り広めたり、そんなウワサが出るように仕向けたりなんてことはあり得ないし、
それは同様に自分の身を守ることにもなる。
そして目の前に座ったヒューズ中佐に、単刀直入に問いを投げてみた。
元より、持って回った言い回しだの、ニュアンスを含めた曖昧な表現だのは得意ではない。
あれこれゴテゴテと理屈や言訳を並べるより、聞きたいことをシンプルに言った方がいいだろうと思ってのことだが、
尋ねてみればヒューズ中佐は一瞬驚いたように見えたが、すぐにいつもと変わらぬ笑みをみせる。
□
「珍しいヤツが難しい顔をして、改まって話があるなんて言うから何かと思えばそんなことか」
ヒューズ中佐は笑いながらそう言うと、やれやれといった様子で酒を飲む。
だが、会話を終わらせるでもなく、突き放す風でもなく、ハボックが真剣なのを茶化すこともなく、まじめに話を続ける。
「なあ、考えてもみろよ。あいつは国家錬金術師だぜ? まず士官学校なんか出なくたって少佐扱いは保証されてるんだ。
それなのになぜ士官学校に来たと思うんだ?」
士官学校を出ればエリートへの最短コースだ。
そこに行ったのは国家錬金術師として佐官待遇を得るだけの名前ばかりのものではなく、実際に使える力が必要だったからだろうと思う。
軍の狗として言われるままに召集され、都合よく使われる錬金術師というだけでなく、軍内部での地位と権力を求めてのことだろう。
「そんなヤツが、他人から容れ物だけ与えられて飾りの職位を手にして、それで満足すると思うか?」
手にしてしまえば地位は地位だ。
それだけの効力はある。
だが、それが誰かの力で与えられたものならば、その誰かの前にはどんな地位も権力も無意味になる。
もちろんそんなことができるのは与える地位より上にいる者だから、見下されようと服従させられようと実務レベルでは問題ないのかもしれないが、
それを与えた者に伏すことになる。
その者の都合と命令に従わざるを得ないだろうし、功績を横取りされてしまっても異を唱えることはできない。
軍部内での権力は、それを与えた者の気まぐれの上に存在し、ひどく不確かで危ういものでしかなくなってしまう。
そんなことを望む男ではない。
ロイ・マスタングという男は自分の野望を誰かの庇護の元で成そうとするような小賢しい肩書き主義者ではない。
そんな小物であるはずがない。
それはハボックにも良くわかっているのだ。
大佐には己の野望や、そのための暗躍を知らされる程度には信頼されているし、軍規に背く行為も躊躇なくやってのける様を何度も見てきた。
自分もすでに軍とは離れた部分でも大佐の部下なのだと自覚しているし、それを嬉しくも思う。
そんなことを考えるうちにハボックは、ウワサはただのウワサにすぎないという気持ちが強くなってくる。
親友でもあるヒューズ中佐が言うのだから、これが真実なのだろうという気にもなる。
実際、彼がイシュヴァールの実績で昇進したというのは本当で、その記録を見ても壮絶な戦果をあげたことが見て取れる。
国家錬金術師は伊達ではない。
「あの歳で大佐だなんて若すぎるって言うやつもいるが、そうでもねえんだよ。いや、確かに尋常なスピードじゃねえし、前例稀なんだがな。
平和で上が詰まってりゃ確かにありえないんだろうけどよ、幸か不幸かここは軍事国家ってやつだからな。
あちこちで戦争を続けてくれるお陰で上のやつらがいつまでも生きてその地位にのさばっているのは難しい。
下のもんにはいつでもチャンスがあるってことだな。おまけに今回はスカーがまたごっそり減らしてくれたから、近いうちに大幅な人事異動があるぞ。
あいつまた上にあがるかもしれねえなあ」
そう言うこの男だってこの歳で中佐なのだ。
しかも国家錬金術師なわけでもなく、今は軍法会議所配属で、未だ血生臭い流血現場に居合わせることはあっても、すでに戦場には赴いていない。
この昇進もまた尋常の早さではないのだが、どこを取っても大佐のような手段を使ったのだろうというようなウワサがたつこともないのは、
一体二人の何が違うというのだろうか。
大きく違うのは外見と、ヒューズ中佐が愛妻家で娘を溺愛しているってくらいだろうということはすぐにわかる。
万が一ヒューズ中佐にもそんなウワサがあるとすれば、聞こえてこない以上どこかで揉み消されているのだろう。
そこまで考えて、ハボックはようやく自分の行動の理由をみつけたような気がした。
都合の悪い中傷なら、大佐はどんな手を使っても揉み消してしまうだろう。
だが、このウワサに関するかぎり、肯定も否定もせずに受け流しているのだ。
それがどうにも気に入らなくて気にかかる。
本当だから揉み消さないのか、消しても後からまた湧いてくるのか、或いは、やはりただのウワサだから構うほどのことでもないと放っておくのか、
その真意がはかれないことに苛立ちを覚える。
それでもやはり、本当だとするのも疑わしいのだ。
あの大佐が色仕掛けなんかで媚びへつらってのし上がっていくなんて話を、大佐自身のプライドが許すとも思えない。
「まあ、やっかみ半分、珍しさ半分なんだろうな。そうやって少しでも出世の妨害になればってのもあるのかもなあ」
そう言うヒューズ中佐を見れば、やはりそうだろうと思えてくる。
あの大佐は実力と実績を売り込むことはあっても、身体を使ってなんて下衆なやり方は必要ないだろう。
「あれと同じに見えるか?」
そう付け加えるヒューズ中佐の視線を追うと、店の奥には見慣れた髭の高官が愛人を連れて飲みに来ているのが見えた。
明らかに愛人であるのを隠すことなく側近につけている者は軍部内に何人かいる。
その愛人が男である場合も稀にはある。
奥の席で飲んでいる者が、日頃その庇護者の威光を笠に、その権力を自分のものと勘違いして得意気に高飛車にしているのを思い出しながらハボックは、
確かにあれと大佐は同じではないと思う。
「あいつは庇護されて安穏としているやつじゃないぞ。目的のためには食い破ってでも上を目指すだろう」
そこまで言ってからヒューズ中佐は、「ああ、そんなウワサなのか」と一人納得するように頷き、確認するようにハボックを見る。
大佐に関するウワサは、ただその身体を使って高官の庇護を受けて出世の役に立てているというだけでなく、その庇護者を蹴落として地位を奪うというものだった。
時には「葬って」と言われることもあり、それを繰り返してまた次の獲物に取り入るのだと言う。
「それが本当ならな、そんな物騒なのを囲おうなんて思うやつがいるか? 食われちまうんだぜ。おっかねえや」
あいつは大人しく飼われたりしねえぞと言いながら、ヒューズ中佐は旨そうにグラスの酒を飲む。
ハボックは紫煙を眺めながら、そうやって利用されるかもしれない恐怖を凌駕するだけの手腕を持つ者なら、そんなウワサがあっても大佐を抱こうとするかもだし、
そうやって踏み台にするように扱われるのがわかっていても手に入れたい身体なのかもしれないじゃないかと考えはしたものの、
目の前の男にそうも言えずにいた。
ただ、大佐がそんな立ち回りをする必要などないというヒューズ中佐の言葉は、確かに納得できた。
□
話が一段落したようだと見て、ヒューズ中佐は席を立ち、店の入口にある電話に向った。
その様子を見ながらハボックは、また新しいタバコに火を点け、何箇所かに電話をかけているらしいヒューズ中佐を眺めた。
謝っている様子は家族にだろうか。
帰り際を捕まえてここへ連れてきてしまったから、今日はもうセントラルには戻れない。
それを妻子に詫びているのだろう。
帰宅予定を変えてまで付き合う気になったのは、自分がよっぽど必死な顔をしていた所為なのだろうとハボックは思う。
今もまだそんな顔をしているのかもしれない。
ヒューズ中佐の次の電話はもう少し気軽な用件らしく、笑いながら何かを話している。
急用という風にも見えないが、誰かセントラルの部署に明日の仕事の指示をしているのだろうか。
そして、また別のところへかけ、今度は手短に用件を告げただけで切ったようだ。
三本目の電話の際に見せたヒューズ中佐の表情で、ハボックはその電話の相手が大佐だと思った。
ただの勘でしかないが、恐らく当たっているだろう。
自分が呼び止めたことで泊まりになって、これから大佐の家に行くのだと思うと、なんとも面白くない。
邪推をしているのかもしれない。
友人なのだから、こんな時に泊まるくらい普通だろう。
そうは思っても気に入らないのだから仕方ない。
ああやって突然行っても受け入れられる人物に嫉妬しているのだろう。
ウワサはウワサだとヒューズ中佐も言うし、そうだろうと思いはするが、万が一にもそうなって欲しくないからこんな気分になるのだろう。
苦々しく思いながらタバコを灰皿に押し付けたところへ電話をしていたヒューズ中佐が戻ってきた。
「それにしても、今更だよな」
そう改めて言われなくても今更な話をしているのはわかっている。
確かにこんなウワサは大佐の部下になった時には既にあったのだ。
お前の上官はこんなやつだと、わざわざ聞かせに来る者もいた。
その当時に調べようとするのならともかく、すでに直属の部下になって随分たった今になって、
もう恐らくは他の者の下に就くことはないだろうと思えるほどに軍への忠誠を超えた存在になっているにも係わらず、
古くからあるウワサの真偽を確かめたいなんて今更だろう。
配属当時は別にウワサだろうと真実だろうと構わなかったのだ。
それが今は大事なことに思え、こうして真相を探っている。
当時と今の違いは大佐の問題ではなく、自分の中の変化にあるのだろう。
□
酒もつまみも粗方なくなり、もう他に相談でも雑談でも必要がないのなら店を出ようと、ヒューズ中佐が荷物と伝票を手に席を立つので、ハボックもそれに続く。
店を出たら雨が降っていた。
雨を見れば今では自然と大佐のことを思う。
焔を操れない大佐が今どうしているだろうかと考えてしまう。
降るのがわかっていたのか、それとも今朝のセントラルは雨だったのか、荷物と一緒に持っていた傘を開きながらヒューズ中佐が言う。
「で、なんで俺に聞きに来たんだ? ロイのことはロイに聞いてみろよ」
目の前にいるこの男も、そのロイ・マスタングの相手だと名前を挙げられているからだ、なんて言えるわけもない。
その上で変わらずに今のように旧知の友としていられるなら、よほど特別な存在なんだろうと思ったなんて言えるはずもない。
真実かどうかは当日者に聞くのが一番だと思うからなんてことは言わず、ハボックは雨に湿るタバコを咥えたまま曖昧に笑った。
もし、ウワサが本当だったら、やはりこの男も大佐とそんな関係なのだとしたら、この店での話は全部ウソになる。
そうだとしたらたいしたもんだ。
そんなことを思っているのがわかっているのかいないのかヒューズ中佐は、やっぱり本人に聞くのが確実だよなと言いながら、
「なんならこれから一緒に来るか」とハボックを誘った。
やはり、大佐のところに泊まるのか。
そんな場へ行く謂れはないし、そんな訪問を大佐が快く受け入れるとも思えなかったので丁重に断り、ハボックは話を聞いてくれた礼を言い、
帰れなくしてしまったことを詫びて、「それじゃ」と片手をあげて挨拶するヒューズ中佐を店の前で見送ってから、別の方向に歩きだした。
【リザ・ホークアイ】
翌朝、ハボックが司令部に顔を出すと、大佐の執務室にはホークアイ中尉だけがいた。
大佐の家に泊まった男はもうセントラルに帰ったのだろうか。
大佐はいつも通りのサボりだろうか。
そう思いながら咥えタバコのまま室内に入ると、ホークアイ中尉は大佐の机の上に今日の分と思しき書類を積み上げてから、
振り向いてハボックに朝の挨拶をする。
それに応えて「大佐はいつものサボりスか」と聞けば、今日は朝から会議なのだと言う。
サボりと決め付けたのは悪かったが、日頃の行動を思えばこれも仕方ないだろう。
大佐が不在ならそんなことを言っても焔が飛んでくる危険はないので、安心してここでコーヒーを飲んでいくことにした。
大佐は昼にならなければ戻らない。
大佐がいる間はそのお守りに徹する中尉も、しばらくは自分のことができるわけだ。
こんな風に大佐のいない部屋でホークアイ中尉と二人でのんびりするなんてことは珍しい。
珍しいついでにハボックは、昨夜ヒューズ中佐にした質問を、彼女にも投げかけてみることにした。
内容が内容なので、女性にこんな話をするのはどうだろうかと思いはしたが、他に誰も思い浮かばなかった。
彼女以上に適切な人物はいないだろう。
カップを持ったまま中尉の顔を凝視して黙っていたハボックに、怪訝さを浮かべた瞳を向けてホークアイ中尉が、
どうしたのかと問う声を機に、ハボックは話しはじめる。
大佐のウワサは本当なのかと問えば、中尉は「何を今更」という顔で、「ウワサはウワサでしょう」と答えた。
その瞳には先程の挨拶に見えた柔らかさはなく、軍人であり大佐の補佐官であるいつもの凛々しい中尉になっていた。
そう言うだろうとは思っていたが、実際に言われてみるとなかなか取り付く島もない。
それでもハボックは引き下がらずに再度問う。
「実際はどうなんスか?」
普段、中尉が大佐の一番近くにいるのだ。
同じように大佐の部下とはいえ、現場仕事の多いハボックより、大佐のことを良く知っているはずだった。
「ウワサよ」
だが、答えは変わらない。
「誰かにウワサの真相を尋ねられでもしたの?」
逆にそう訪ねられて、そうではないと言えば、少しの間を置いて更に問われる。
「どんな答えを聞きたいのかしら?」
ウワサだと言われることか、真実だと知ることか。
肯定か否定か。
果たして自分はどちらを望んでいるのだろうか。
問われて答えられずにハボックは考える。
カップを置き、タバコを取り出して咥えてみる。
そういえば、昨夜ヒューズ中佐と話をしたときに、あっさり否定されて感じたのは安堵だった。
では否定が聞きたかったのだろうか。
もし真実だと言われたら、確かにそれは嫌だろう。
それどころか目の前の男に、「ロイは俺のモノだ」なんて言われる可能性だってあったのだ。
……そんなのはごめんだ。
ならば、ウワサを否定して欲しいだけじゃなく、大佐を他のヤツに渡したくないとも思っているのか。
これは独占欲か。
一人勝手にウワサをつつきまわした挙句にそんなものを抱えてくるなんて迷惑な話だろうと思いながらハボックは煙を天井に向って吐き出した。
「何のために答えを求めているの?」
もう一度中尉に尋ねられ、「あー、俺も良くわかんないんスよ」と間の抜けた返事をすると、
「恐らく、私にではなく、大佐に尋ねられる方がよろしいでしょう」と言われてしまった。
直接聞きに行けないからこうしているのだ。
それができれば昨夜ヒューズ中佐を捕まえたりはしなかっただろう。
答えられずに逡巡していると、中尉は席を立ちカップを片付けながら、「たまには悩み事も悪くないわ」と言った。
ハボックは咥えタバコのまま器用に苦笑いを浮かべ、「たまに、っスか」と返してみたが、もう中尉は仕事を始めていて、これ以上は相手をしてくれそうにない。
「さあ、考えごとは手を動かしながらでもできるでしょう。サボってないで仕事にかかって。それとも、ここを手伝ってくれるのかしら?」
大佐用の書類の山を見ながらそう言われてハボックは、勘弁してくれと逃げ出した。
ドアを出る際に、もっと突っ込んだ話をして相談を持ちかけてみようかと思ったのだが、あまりにバカげているとも思い、止めておいた。
たぶん、自分は自分にとっての真実と向き合うための一歩を踏み出す切っ掛けが欲しかったのだろう。
普段、この美しくも凛々しくて面倒見のいい中尉に随分と甘えている大佐に、いい加減にした方がいいんじゃないかと思うこともあるのだが、
現に自分も今こうして彼女に甘えているのだ。
そんな女性だとわかっていて、背を押してもらいに来たのだ。
このままじゃ欲しい答えがもらえるはずもない。
捕まえたいと思っても独占したいと思っても相手にされるはずもない。
そう思いながらハボックは笑い、気持ちを固めて、ロイ・マスタング大佐が戻るまでに午前の仕事を片付けておこうと持ち場に向った。
【ロイ・マスタング】
「で、何の用だ。見ての通り、私は忙しい。早く言いたまえ」
午後になって執務室に戻ってきたロイ・マスタング大佐は、会議の内容がくっきり浮き出るほどの不機嫌さを眉間に刻み、
手荒にドアを開け、自分の机の上にある書類の山を見て猛烈に嫌そうな顔してから椅子に座った。
そして、補佐官のホークアイ中尉から今日の予定を聞き、必要な段取りの手配を指示して彼女を退室させ、
ようやく一息つきながら目の前の紙の束が自然に燃えてしまってはくれないものかと考えているところへ、
いつもなら遠慮なく部屋に入ってくる部下がいつもらしからず緊張した様子で殊勝にもノックをしてからやってきたので、
面倒事なら聞きたくないぞと釘を刺してからさっさと用件を言わせようとした。
「いや、あのですね。その……聞きたいことがあります」
だが、やはりいつになくハボック少尉のキレが悪い。
見れば顔色もいつもよりは優れないような気もするので、具合が悪いのなら帰れと言ってみたが違うらしい。
「早く言え」
端的に手短に言えと促してみるが、どうにもこうにもハッキリしない。
なんちゅうかだのどう言えばいいのかだのグチャグチャつぶやいていたかと思えば、
機嫌が悪そうですねなんてことまで言うくせに肝心の話はさっぱり出てこない。
「用件を簡潔に言ってくれたまえ。まとまっていないのなら後にして欲しいんだが」
これ以上構ってられるかとハボック少尉をそのままにして、あまり乗り気のしない書類決済に手を伸ばす。
すぐに何か言うかと思ったが、それもなさそうなので、チラと紙から視線を上げて、
話がないのなら退室するようにドアに目をやっても、そこから立ち去る気配はない。
ならばこのまま放っておくことにして、まずは急ぎの決済に集中する。
手早く内容に目を通しながらサインをし、その間にも午前中のバカげた会議を思い出してまた怒りがこみ上げてくる。
なぜああも無駄なことばかり思いつくものかと感心しそうにもなるが、今回のとばっちりは全て自分の隊が受けることになるのを思えば、余計に苛立ちが増す。
少しの間、紙面に没頭していたが、顔を上げると先程のままにハボック少尉はそこにいた。
だが、今度は目があったところでハッキリと話し始める。
「単刀直入に言います。あなたは出世のために、その、誰かと寝てますか?」
一気にそう言われて、一瞬返す言葉を失ってしまった。
同じく僅かな時間だが、動きも止まったままだ。
ようやく喋る気になったのかと思えば、その内容にはさすがに意表をつかれた。
だが、すぐに一つため息をついてから口の端に笑みを浮かべて問いを返してやった。
「どう思うんだ?」
「わかりません」
「では、どう思いたいんだ?」
「わかりません」
「なら、好きにすればいい。私はどちらに思われても構わんよ」
□
「構わないんですか? その……身体使って取り入ってるなんて言われて、腹が立ちませんか?」
本人を前に、どう言えばいいのかを考えてみたが、言い繕うなんて無理だと諦めた。
回りくどい聞き方も探りを入れるのも、小細工が通じる相手じゃない。
意を決して一息に疑問を投げてみたら大佐は驚いたようだったが、その口元に浮かんだ笑みは妖しくさえ見えた。
やはり本当なんだろうか。本当だから否定しないのだろうか。
なぜこんなに気になるんだろう。
独占欲は自覚した。
それはもう自分の中にあるものだと認めた。
自分の上官だからというだけでこんな気持ちにはならないだろう。
仕事や任務といってもすでに軍の範疇を超えているし、そもそもそんなものとは全く別のところから湧き上がってくる感情だ。
これはもう本能といってもいいだろう。
仕事でも規律でも階級でもないところで自分はこの男を捕らえ独占したいと思っているのだ。
もしウワサが事実だと言われたら、いったい自分はどうするつもりなんだ。
大佐がその手の行為に慣れているからといって自分のモノになるとは思えない。
逆に、ウワサはウワサにすぎないと言われても、それでいったい何がどうなるっていうんだ。
自覚した思いを伝えるのは迷惑だろうからと、思うだけでいられるだろうか。
結局、ウワサが事実だろうとデマだろうと、自分の思いに変わりはないのだから、どっちでも同じなのかもしれない。
どちらにしても、自分は大佐について行くのだから、その真偽は関係ないのだろう。
何も言わないまま立っていたハボックが、そこでようやく何が気になっていたかを理解し、ハッキリした気持ちで顔上げると、
大佐は机の上から新たな書類を手にとり目を走らせながら話を続けた。
「ウワサを聞いたものが真偽どちらに思うことにしても、そのどちらもが私にとっては駆け引きの道具になるのだよ」
だからどちらでも構わないのだと言って、また人の悪い笑みを見せる。
たぶん、ここに突っ立っている間に自分が何を考えたのかなんて見通されているのだろう。
だが、脚を組みなおし、完璧な微笑を浮かべる上官からは真相を推し量ることはできなかった。
どちらでもこの思いが変わることはないのだ。
告げぬまま思うことになっても、いつまで偲べるかなんてわからない。
ウワサがどうあろうとも、気付いてしまったものはいつか口に出てしまうだろう。
たぶん、切っ掛けが欲しかっただけだ。
それを求めて中佐や中尉と話をしてみたのだろう。
それと、今になって真相を知りたいと思ったのには多分に嫉妬も混じっている。
わかってみれば簡単なことだ。
気付いてみれば単純なことだ。
ハボックは上を見て、大きく煙を吐き出して、短くなったタバコを揉み消す。
「わかりました」
「そうか、それは良かった。では仕事に戻りたまえ」
もうこちらを見ることもなく仕事に集中し始めた大佐を見ながら、
ハボックは言われるままに退室しようとしたが、ドアの手前で思いついたように振り向いた。
「その前に一つだけ言わせてください」
ようやくいつものハボックらしい声を聞いて顔をあげた大佐が、かまわんと目で促す。
それを見てハボックは、タバコを咥えたまま背筋を伸ばし、聞こえなかったなどと言われぬようハッキリした口調で短く言う。
「俺、あなたが好きです」
照れたり狼狽えたり呆れたり怒ったりするだろうかと思いながら大佐を見れば、何も言わないまま僅かに微笑んでいて、
それがまたさっきの妖しさを含んだ笑みより幾分艶が増しているように見えた。
ああ、ますますわからねえ。
深みに嵌っていくような気になってくる。
こんなんだからあんなウワサをたてられるんだ。
からかうにしたって悪趣味だ。
そんなことを思いながらハボックは、半歩だけよろめいてからドアをあけ、ロイ・マスタング大佐の執務室を後にした。

「RUMOR」より(2004.8.14発行:web用に改行追加)
イラスト: 進藤ウニさま
ハボロイと言いながらヒューズが多かった
|