「ハリー・ポッター」は本にあらず?
         〜多様化するファンのかたち〜(2004/6/17)
 「ハリー・ポッターが好き」、「ハリー・ポッターのファン」という発言の中身の意味するところは一つではなくなっているようです。つまり、「ハリー・ポッター」は本のタイトルのみを指すだけでなく、映画、グッズ、さらには映画出演の俳優が好きだということまで言及できる広義の言葉に変化してきているように感じます。何もこれは「ハリー・ポッター」に限ったことではありません。例えば「くまのプーさんが好き」「ピーターラビットが好き」という発言は、原作である本が好きだということを指している場合ももちろんあるでしょうが、実際にはプーさん、ピーターラビットのイラストのついたグッズを集めているという意味を指していることのほうが多いのではないかと思います。ただ、ハリー・ポッターの場合、本の出版に際して各国でイラストが異なったため、当初売り出されたアメリカ版のイラストのついたグッズは成功とは言い切れなかったと思います。しかし、映画化により世界各国で共通のハリー・ポッター世界のイメージが広く浸透していきました。映画と同じものを身に着けること、映画のイメージを基調としたグッズを持つことで、その姿を見れば即「ハリー・ポッターのファン」を示すことができるのです。だからメディアで紹介したがるのはホグワーツの制服に身を包み、しなやかに杖を振る魔法使いに扮する人々なのです。そしてそれこそが「ハリー・ポッターのファン=ポッタリアン」として社会的に認知されつつある姿ではないでしょうか。

 本から入ったファン、そして今でも本のファンであるわたしは、ひとところ映画ブーム、グッズに沸くニュースを見ると複雑な想いを感じました。本も映画もグッズ収集もすべてにわたって興味を示さないとファンとは言えなくなって来ているのではないだろうか。その意味ではわたしは「ハリー・ポッターのファン」には入らないのではないだろうかと。

 『小説「ハリー・ポッター」探求』(パウル・ビュルヴェニヒ著/谷口伊兵衛訳 而立書房)にも興味深いことが書いてあります。

『ハリー・ポッター』の成功を当初から完璧に働いた商品化活動に帰するのも、同じく誤りであろう。『ハリー・ポッター』の効果的な商品宣伝活動は、これが成功するためのもう一つの要因に過ぎないのだ。しかもこういう商品化活動は「ハリー・ポッターの魅力」に寄与しなかったのであって、その逆だったのである。(上掲書 P197)

 この本では「ハリー・ポッターの魅力」について様々な角度から論じています。巧みに構築されたプロット、言葉遊び、ユーモアのある対話、着想の豊富さなどが本の魅力はひとことでは言い尽くせないと述べています。アメリカでは本の発売当初からグッズが販売されていたようですが、グッズは本の内容ではなく「ハリー・ポッターの認知度」を高めたと思います。グッズは本を読んだファン、映画を見たファンが「自身はハリーのファンである」ことを表現する手段になっていると思います。映画化により更にファンの意味は多重になり、シリーズの本を読む人だけがハリー・ポッターのファンであった時代はとうに終わっているのです。本を読んだ人より映画は見たという人のほうが多そうですよね。本にはまるもよし、グッズを集めるもよし、映画に夢中になるもよし。ハリーのファンのかたちはひとつではないのです。


 自身がハリー・ポッターを好きであるというかたちは、多種多様になっているのでしょう。もはや本を読んだことがない「ハリー・ポッターのファン」である人々が存在するのかもしれません。グッズと映画と本、どの程度相関関係があるのかわかりませんが、グッズと映画の結びつきは密着だと思います。くまのプーさんのようにグッズのみが一人歩きする時代は果たしてやってくるのでしょうか?

 「ハリー・ポッターが好き」、という言葉の意味するところは広いのです。ホグワーツの制服を着ていないファンもここにいます(笑)